◎TOKYO PHOTO ; NEGISHI SHIKIAN 4.7 2012
山手線の鴬谷駅から歩いて数分。周囲のホテル街とはうってかわり、そこだけは静謐な空気を醸し出していた。正岡子規の旧居、子規庵。旧前田侯の御家人用二軒長屋の一つであった建物を借り、子規は明治27年(1894年)に松山から母と妹を呼び寄せて、亡くなるまでの8年間をこの地で暮らした。
脊椎カリエスのため立つことも出来ず、6畳の間に寝たきりの身でありながら子規は、森鴎外、夏目漱石、高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節、島崎藤村など多くの友人門弟等を得て、句会歌会を精力的に開く。俳誌「ほとゝぎす」を起こし、「歌よみに与ふる書」では短歌の改革を唱え写生文を提唱した。
「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病牀六尺」は病床三部作と言わる。「仰臥漫録」の拡大コピーの一部が常設展示室に飾られている。亡くなる前年の明治34年(1901年)9、10月を中心に自筆で書いた日記。体調や食事が細かく記されているほか、俳句や水彩画なども描かれていて、切々と胸にせまるものがある。
子規庵室内の撮影はできないが、庭なら大丈夫とのことで外に出て撮影する。子規が病床からこの庭の花々にどれほど慰められたことだろう。軒先のへちまの蔓。朝顔や萩、鶏頭など様々な草花が所狭しと小宇宙を作っている。
◎ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな
(庭の立て札の句。「今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」という『小園の記』の一文が添えられている。)
昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可される。空襲により住まいは焼失するも、幸い土蔵の中の遺品は後世に残された。その後再建され、昭和27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っている。入館料500円。
※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto2.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html
photo ; Utsunomiya Tamotsu
text;Hasegawa Kyoko
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