雑誌やテレビでよく紹介されている「かっぱ橋道具街通り」を歩いた。東京メトロ銀座線の田原町から行くのが一番近いが、上野と浅草の中間にありどちらから歩いても20~30分程度。北は言問通り、南は浅草通りまでの約800メートルと南北に長い商店街だ。調理道具、食器、厨房設備、製菓用品などを売る中小の約170店舗が並んでいて、食に関連するものは何でも揃っている。研ぎすまされた高価な包丁が入口に並ぶ店もある。
その歴史は「かっぱ橋道具街」の年表によると、大正時代にかっぱ橋に数軒の古道具を商う人たちが、江戸時代に整備された新堀川(しんぼりがわ)の両岸で店を出したことが発祥とされている。新堀川は大正12年の関東大震災の後に暗渠化され、その上を昭和44年まで都電が走っていたという。この川に架かっていた合羽橋と菊屋橋の二つの橋は現在も交差点の名前として残る。昭和20年の大空襲により道具街全焼するが、昭和22年には早くも浅草合羽橋電車通商工会を設立し、以降飲食業界のニーズに対応した様々な業種の店舗が集積する個性的な専門商店街となっていく。
商店街の中間あたり、合羽橋交差点のすぐ近くに「かっぱ河太郎」という像があった。平成15年10月に「合羽橋道具街」が誕生してから90年を迎えるにあたり、記念して作ったシンボル像ということ。合羽橋名前の由来には2つの説があるという。ひとつは金竜小学校跡地辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという「雨合羽」説。もうひとつは文化年間にこの地で掘割(後の新堀川)整備を行った合羽屋喜八の名前をとったというもの。湿地帯であるこの土地の住民達のために私財を費やして整備を行った合羽屋喜八の良心に心を打たれた河童達が、夜ごとに工事をして喜八を助けたという言い伝えが残っているという。
普段は目にしない珍しい道具が置いてあり、見て回るだけで楽しい。タコ焼機や焼鳥機、綿菓子機や店舗の前に置く看板、ショーケースやユニフォーム、寿司や刺身、フルーツなどなど食品のサンプル、コーヒー道具専門店から鍋・釜・包丁。高価なものから廉価なものまであらゆるものが並べられている。一軒一軒見ていくと一日はあっという間に過ぎてしまう。
photo ; 宇都宮 保
文;長谷川 京子
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