著者ナタリア・ギンズブルグは、19世紀イタリアの国民的作家アレッサンドロ・マンゾーニ家の物語を、その一族や友人・知人たちが書き送った手紙をつなぎ合わせてひとつの流れを作り、再構築して『マンゾーニ家の人々』を描きあげた。物語は、1762年アレッサンドロ・マンゾーニの母、ジュリアが生まれた年から始まり、1907年マンゾーニの義理の息子ステファノの死で終わる。
19世紀に入るとイタリアは自由主義思想や独立運動が芽生え、国家統一の気運が高まった。統一国家としての「イタリア王国」成立は1861年。アレッサンドロ・マンゾーニが代表作『婚約者たち』(『いいなづけ―17世紀ミラーノの物語』とも訳されている)を発表したのが1827年。まさに古い価値観が転換を迎える運動のさなかに書かれている。マンゾーニは1860年には上院議員となり、イタリア統一の精神的指導者として尊敬を受ける。今でも『婚約者たち』はイタリアの中等教育課程のなかで子どもたちに学ばれ、国民文学として親しまれている。
マンゾーニは最初の妻エンリケッタ・ブロンデルと1808年ミラノで結婚する。そのエンリケッタは16歳で結婚してから9人の子どもを授かるものの病気がちで子どもを生んでは体調を壊す…の繰り返し。転地療養や瀉血が何度となく行われ、敬虔なカトリック信者だったエンリケッタは平穏な日がくることを神に祈る日々を送った。だが、最後の子どもがまだ物心つかない4歳の時、周囲の願いもむなしく42歳で結核によりこの世を去る。
悲しみにくれるマンゾーニであったが1837年、38歳のテレーサ・ボッリと再婚する。テレーサの連れ子の17歳になる息子ステファノとマンゾーニの娘や息子との同居が始まる。テレーサは自分の息子ステファノを溺愛し、マンゾーニの子どもたちのことに全く関心を示さなかった。子どもたちの世話はマンゾーニの母、ジュリア夫人に任せきり。
まだ小さな子どもたちは寄宿学校に入れられ、適齢期の娘が下の子の勉強を見ていた。長女ジュリアは既に結婚し子どももいた。1938年三女ソフィアが結婚、翌年次女クリシティーナも結婚。しかし3人とも26、28歳という若さで亡くなる。長男ピエトロは、父の出版を手伝ったり家族の資産の管理を行ったり献身的に父に仕えた。結婚し4人の子どもを設け1873年60歳まで生きる。弟のエンリコとフィリッポも家庭を持つが、事業に失敗し零落する。父マンゾーニに金の無心の手紙を何度も送っている。その度にマンゾーニは絶望し、諭し、見限ろうとするが結局送金する。
四女のクララは2歳で病死。五女のヴィットリアは結婚し3人の子どもをもうけるが長女が病死する。ヴィットリアの夫ジョルジーニは病気がちの妻とその兄弟をささえ、後に政界にも出る。一番下の六女のマティルデは小さいときから寄宿舎に入れられ両親の愛を知らずに育つ。寄宿舎を出てからは姉ヴィットリアやヴィットリアの夫ジョルジーニの父親や亡くなった姉の再婚相手などの世話になり、病気がちの体でそれぞれの家を転々とするが、結核のため26歳で亡くなる。
父マンゾーニが1873年に88年の生涯を閉じたとき、生存していた実子はエンリコとヴィットリアの2人だけだった。
アレッサンドロ・マンゾーニ。多くの文学仲間や宗教家、政治家たちと対話し、皆から尊敬を集めたことが手紙の文面から読み取れる。若くして「天使のような」清純で献身的、そして信仰のあつい妻エンリケッタを亡くした。再婚したテレーサは自己中心的で虚栄心に満ちていたが、病気の療養などで別居している時にやりとりした手紙からはお互いの愛情を感じる。
マンゾーニがテレーサに思いやりを注いだ分、子どもたちとの距離ができてしまった。病気の六女のマティルデが父に何度も手紙を送る。なかなか会いにきてくれない父に、会いたい思いと感謝の言葉を添えて。
本著は須賀敦子さんが1988年に手掛けた翻訳本で1998年に新装版として出版された。
著者ナタリア・ギンズブルグ(1916年7月14日 – 1991年10月7日 )。イタリア人小説家。
文;長谷川 京子
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