2012年1月31日火曜日

千代田区外神田

◎TOKYO PHOTO  ; SOTOKANDA  28.1.2012









「3331 Art Chiyoda」を出てから昌平小学校の方面へ。秋葉原に近づくと中国からの観光客と多くすれ違う。中国人の団体は大きな声で話しながら歩いていて、昼食を食べる店をみつけたらしく中華料理店に入っていった。

妻恋坂をわたり外神田3丁目の路地に入ると、PCのパーツや中古品などを売る店がずらりと並び賑わっている。神田教会や昌平小学校や芳林公園が隣接している。芳林公園で大勢の若者が集まっているので何をやっているのか聞いてみると、女性アイドルグループの写真を見せ合っているのだという。手に手にみなファイルを持っている。中央通り方面を見るとドン・キホーテ秋葉原の8階に「AKB48劇場」があるのでそこで撮ったものなのだろうか。

昌平橋通りに出て神田明神下の交差点を過ぎて神田川にかかる昌平橋に出る。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto2.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html

photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

2012年1月30日月曜日

千代田区外神田 3331 Arts Chiyoda

◎TOKYO PHOTO  ; 3331 Arts Chiyoda no1  28.1.2012










東京メトロ千代田線湯島駅から徒歩3分、銀座線末広町駅から徒歩1分の所にある「3331 Art Chiyoda」は廃校になった学校を改修して誕生したアートな空間。様々なクリエイターやアーティストたちが自分たちの作品を発信する場所になっている。外観は学校だが、中に入ると様々な趣向が凝らされている。B1から3階まであり、白く塗られた廊下の壁にはデザインされた文字や図柄がほどこされる。かつて教室だったスペースにはアトリエやギャラリー、オフィスなど様々なテナントが入居している。2階の体育館ではお母さんと小さな子どもたちが音楽に合わせかけ回っている。入口や廊下から見る室内空間は全体に統一されながらも、それぞれ個性を出していて楽しい。

錬成公園から繋がるウッドデッキから入ると、開放的なコミュニティスペースになる。1階にはメインギャラリー、ラウンジのほかカフェもあり、ディナーやランチ、コーヒータイムとくつろげる。この日コミュニティスペースは何かパーティーがあるらしく若者が準備に追われていた。

メインギャラリーでは『アンデパンダン スカラシップ展』が行われていた。昨年9月に行われた第2回目の『3331 アンデパンダン』の中から投票によって選出された8名の作家による展覧会。どれもおもしろい。特にオーディエンス賞の『Hi!LEG』には笑えた。武蔵野美術大学在学中の3人の女性によるユニット。本物の映画のチラシそっくりに、衣装もポーズも背景もまねて撮影し、チラシを隣同士に並べる。「アメリ」や「ゼロの焦点」や「下妻物語」「めがね」などなど多数。どう扮しても似ても似つかないのは顔。しかし当人たちはなりきっている。手間ひまをかけた一生懸命さに拍手を贈りたい。1月29日まで。

1階の奥では「東京屋上散歩」鷹野 晃写真展(1月29日まで)もやっていた。いまは屋上に上がることのできる建物は少なくなっているが、1980年、90年代は結構上がれて、団地やデパートの屋上で遊ぶ子どもたちもいた。そんな何気ない日常のなつかしい風景が並ぶ写真展だった。

2階の206教室「ゼロダテアートセンター東京」では、『まばたきスケッチ』と垂れ幕のある部屋で準備中の、現役の大学院生の大絵晃世さんに話を聞いた。本展は平面作品、映像、インスタレーションという3人の作家により構成される空間とのこと。大絵さんは、新宿御苑と新宿御苑の近くにお住まいの方の取材を通じてイメージしたことを映像にし、「新宿御苑のためのレクイエム」という曲にのせライブパフォーマンスとして展開するという。若い作家のまばたきの向こうに広がる世界を応援したい。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto2.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html

photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

2012年1月28日土曜日

日本橋人形町商店街

◎TOKYO PHOTO  ; NINGYOCYO no2  22.1.2012










緑地に白抜きで「下町の散歩道 甘酒横丁」ののぼりがはためく甘酒横丁には、歴史ある老舗が並ぶ。甘酒横丁が交差する大通りは人形町通り。その人形町商店街は、ハンバーガーや回転寿しなどのファーストフード店と老舗の店舗が混在し、こちらも魅力的な商店街だ。

人形町のシンボル、からくり時計「人形町からくり櫓(やぐら)」が甘酒横丁交差点のこちらがわと向こう側に設置されている。ひとつは江戸落語、もうひとつは町火消しをテーマにしていて、毎日正午から午後7時までの1時間おきに音楽とともに人形が出てきてショーを繰りひろげる。

居酒屋「笹新」の所で甘酒横丁と交差する「大門通り」の標識を見つけた。ここはかつて吉原の遊郭があった界隈という。江戸の初期、風紀の乱れを恐れた幕府は、慶長 17 年 (1612) 、葭(よし) の生い茂っていた二町四方 (約1万5千坪) の沼地を埋めたて幕府公認の遊郭・吉原を作った。武士や羽振りの良い商人や職人、町人たちが通い繁盛を極めたというが、明暦3年( 1657 )の大火で廓のほとんどが焼失。この地での営業は 40 年足らずで浅草に移ったという。現在の ” 大門通り “ の名称は、吉原の大門に通じる街路の名残り。

人形町は路地裏歩きも楽しい。リサイクル着物と手作り工芸品の「下町おもしろ工芸館」の隣の居酒屋で、夕方5時からトリスハイボールが格安との看板を見かけて思わず足が向く。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto2.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html

photo ; 宇都宮 保
文 ; 長谷川 京子


奥泉 光著『シューマンの指』を読む

「私」(主人公・里橋優)が東北の大学に通っていた時、ドイツに留学中の友人・鹿内堅一郎から奇妙な手紙をもらう。その手紙には、ある不幸な事故の後ピアノを弾けなくなったはずの友人「永嶺修人」が、ツヴィッカウのシューマン記念館でシューマンのピアノソナタ3番を弾いていた、と書かれてあった。しかも何事もなかったかのような見事な演奏だったと。

こんなミステリアスな出だしと表紙の意味深な血の跡に思わず引き込まれる。30年前の出来事が「私」の手記によって徐々に明らかになっていく。

「私」が音楽大学への受験を控えた高校3年の時、ピアニストとして将来を嘱望された永嶺修人が新入生として入ってきた。修人と親しくなった「私」は、学校の帰り道に修人から「講義=なぜシューマンは面白いのか」を受け、修人の忠実な生徒になる。若くして才能を開花させた人間特有の斜に構えた所のある修人だが、シューマンの音楽論を語らせたら情熱的。「私」も実際にシューマンのピアノ曲を弾いたり本や雑誌を読んで勉強を重ね、すっかりシューマン信者となっていった。

シューマンは、保守的な考えにしがみついた古い芸術に対抗するために「ダヴィッド同盟」という架空の団体を作り、活発な音楽評論を繰り広げた。「私」と修人はシューマンを真似て、クラシック好きの鹿内堅一郎を加えて「僕らのダヴィッド同盟」を結成。シューマンの譜面を読んで心に浮かんだことや連想したことなどをそれぞれが自由にノートに書いて回覧することにした。「私」はますますシューマンの虜になった。

受験に失敗し浪人生となった「私」は、ある夜偶然、修人のピアノ演奏を聴いた。弾いていたのはシューマンの《幻想曲ハ長調》Op.17。学校の音楽室で月の光を浴びてシルエットに映し出された修人は奇跡のような音楽を奏でた。

そしてその夜、校内で女子生徒の殺人事件が起こった。

ここからの展開は…サスペンスフルの様相を帯びてくる。「私」のなかで時折正体不明になる修人。そして、修人の指の切断事件ともうひとりの女子生徒の自殺。
修人はいったい何者なのか?
殺人事件の犯人はいったいだれなのか?

想像もつかない意外な結末だった。読み終わった後も何だかけむりに巻かれたような感覚だが、シューマン好きの著者が、シューマンの生涯をこの物語のモチーフにしようと試みたのではないかと考えたら少し理解できた。ひとつはシューマンは過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなったこと。二つ目はシューマンは架空の団体『ダヴィッド同盟』を設定し、この団体のメンバーによる架空座談会という形での音楽評論を行ったこと。この架空座談会に登場する「フロレスタン」は活発で行動的。「オイゼビウス」は物静かで瞑想的で、彼らはシューマン自身の2つの面を表した分身であったとも言われる。三つ目はシューマンは躁鬱や精神的疲労、精神障害の悪化によりライン川に投身自殺を図り、間もなく助けられたが精神病院に収容されたこと、など。もっとあるかもしれないが…。

この本の決定的な面白さは、シューマンの楽曲を一曲ずつ読み解く修人の語りと内容が魅力的なこと。《ピアノ協奏曲 イ短調》 op.54、《謝肉祭》 op.9、《ダヴィッド同盟舞曲集 》op.6、《子供の情景》 op.15、《フモレスケ 変ロ長調》 op.20、《ピアノソナタ第2番ト短調》 op.22、《幻想曲 ハ長調》 op.17、《ピアノソナタ第3番 「管弦楽のない協奏曲」 ヘ短調》 op.14、《森の情景》 op.82などなど。クラシック好きには大いに楽しめる一冊だ。

◎著者:奥泉 光(おくいずみ ひかる)
1956年、山形県生まれ。現在、近畿大学教授。
1993年『ノヴァーリスの引用』で野間文芸新人賞・瞠目反文学賞受賞。
1994年『石の来歴』で芥川賞受賞。
2009年『神器-軍艦「橿原」殺人事件』で野間文芸賞受賞。
他に『葦と百合』『バナールな現象』『『吾輩は猫である』殺人事件』『グランド・ミステリー』『鳥類学者のファンタジア』『モーダルな事象-桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活』『地の鳥天の魚群』など著書多数。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto2.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html


文;長谷川 京子

2012年1月27日金曜日

日本橋人形町 甘酒横丁

◎TOKYO PHOTO  ; NINGYOCYO no1  22.1.2012









日本橋人形町は江戸時代から商業、経済の中心として栄えたところ。関東大震災で大きな被害を受けたが復興も早く、昭和8年の区画整理ではじめて人形町という正式町名が誕生した。それまでは狭いエリアにもっと多くの町名が存在していた。戦争の被害をまぬがれたため戦前の家並みが各所に残っている。町名由来は「操り芝居や浄瑠璃芝居小屋があって市村・中村両座が繁栄し、多くの人形師が住み人形を作って売る店が並んでいたので、いつしか人形町と俗称されるようになった」という。

日本橋人形町といえば何といっても甘酒横丁。人形町通りから明治座方面にほぼ東西に250m余りの下町情緒たっぷりの商店街だ。明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は「甘酒屋横丁」と呼ばれていたという。

道の両側においしそうな小売店が並ぶ。創業昭和3年の手焼きせんべいの「草加屋」、130年にわたる匠の技を守り続ける人形焼・瓦せんべいの「亀井堂」、毎日築地から仕入れる魚や野菜とうまい酒の「笹新」、大正5年創業の長蛇の列のできるたい焼き屋「柳屋」。反対側には、創業明治10年の老舗いなり寿司の「志乃多寿司総本店(しのだ)」、創業大正6年の三味線の店「ばち英(はなぶさ)」、明治44年創業の『秘伝だし巻き』の玉子焼の店「島忠」、江戸末期創業というつづら専門店「岩井つづら店」、創業明治40年創業の自家製豆腐やがんもどき店「双葉」、大正三年創業の自家焙煎ほうじ茶の店「森乃園」などなど。

帰りにいなりずし発祥の店「志乃多寿司総本店」の折詰めを買った。甘辛く上品に煮たいなりとのりの香りの効いたのり巻きを美味しく頂いた。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto2.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html

photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子


2012年1月26日木曜日

日本橋小網町・蛎殻町界隈

◎TOKYO PHOTO  ; KOAMICYO,KAKIGARACYO  22.1.2012












日本橋兜町から東京証券取引所の横の鎧橋(かぶとばし)を渡り、日本橋小網町に入る。この鎧橋のたもとにある案内板によると、江戸期には橋はなく小船による渡し場で「鎧の渡し」と称した渡船があったとのこと。鎧橋が架かったのは明治5年、当時この近くにあった三井家などの豪商が木橋を架けたのが始まり。その後、明治21年には鉄骨製のトラス橋に架け替えられ、現在の鎧橋は昭和32年に旧橋の老朽化に伴なって架け替えられた。

日本橋小網町の町名由来は中央区の説明によると「網を引いて将軍の観覧に供した漁師たちが御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得た。この漁師たちが、一丁目の町角に網を一張干しておく風習から生じた」とのこと。現在の小網町は、上を首都高速都心環状線が走る日本橋川に沿った所に位置し、昭和に建てられたビルが林立している。

すぐ隣は日本橋蛎殻町。銀杏八幡宮を過ぎてから新大橋通りを渡り、日本橋公会堂の入る日本橋区民センターに立ち寄る。中央区の街案内マップなどもらってさらに楽しい街歩きとなる。日本橋蛎殻町の町名由来は「昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしい」。

江戸時代は広大な武家屋敷地であったが、金融の中心地兜町と直結したため明治に入ると、金融業はもとより株取引きや商品先物取引の中心地となる。米穀取引所が設けられ、東京商品取引所や東京油問屋市場等も開設されたという。東京大空襲で一帯は焼失したため戦後は大きく様変わりした。現在の日本橋蛎殻町は古くからの建物は残っているが、新旧のマンションが建ち並ぶ居住地になっている。

蛎殻町2丁目西北角にあり、半蔵門線の水天宮前駅の前にあるのは「水天宮」。昔から安産祈願、子授けで親しまれてきた。水天宮の縁日にあたる毎月5日と、戌の日は大勢の人で賑わうという。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto2.html
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html

photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子