2012年8月24日金曜日

文京区 森鷗外の無縁坂、弥生坂・異人坂・S坂

◎TOKYO PHOTO  MORIOGAI MUENZAKA ;  8.2012








無縁坂は、由緒ある旧岩崎邸の高い石垣に沿って続く静かな坂道。坂の北側にある講安寺がかつて無縁寺と呼ばれ、坂名の由来と伝えられている。無縁坂は森鷗外の小説「雁」と、さだまさしが「無縁坂」を唄ったことで一躍有名になった。旧岩崎邸の北側はいまはマンションなどが建ち並んでいるが、昔はしもた屋風の小さい家が軒を並べていたとのこと。

「雁」の中で鷗外は、医学を学ぶ大学生の岡田と高利貸しの妾・お玉とのささやかな触れ合いを描いている。お玉が住んでいた家が無縁坂の途中にあった。散歩を日課にしていた岡田は、大抵道筋が決まっていて、そのひとつは“寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく”コース。その行き来の途中でお玉を見かけたのだ。お玉の家は高利貸しの妾の家らしく“一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾(たけすだれ)が卸してある。…この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた”。お玉は岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行してしまうという切ない物語。

坂を上ると東京大学医学部に突き当たり、下っていくと不忍通りと不忍池に出る。途中を左折して横山大観記念館の裏手に、境稲荷神社の古くからの湧水「弁慶鏡ヶ井」を見て、弥生2丁目へ。言問通りに出た所に弥生式土器発掘ゆかりの地の石碑が建っている。

文京区の説明によると、明治17年東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名を取り弥生式土器と名付けられた。しかし、「弥生式土器」の発見地は、都市化が進むなかではっきりしなくなり、推定地として3か所が指摘されていた。昭和49年に東京大学構内の旧浅野地区の発掘調査により、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出され、国の史跡に指定されたとのこと。

この石碑を右折して言問通りを下る坂道が弥生坂。かつてこのあたり一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれた。また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったことから鉄砲坂ともいわれる。

弥生坂を下る途中を左折した所にあるのが異人坂。坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。当時は外国人が珍しかったこともあって、外国人が多く上り下りする坂なので、異人坂と呼ぶようになったとのこと。さらにお化け階段を下って、東大球場を高台に見ながら歩いて来ると、根津神社の前の新坂に出る。別名をS字坂、権現坂とも言う。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
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http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto3.html

photo ; Utsunomiya Tamotsu
text;Hasegawa Kyoko

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