2012年5月22日火曜日

田端文士村その1(北区)

◎TOKYO PHOTO  ; TABATA no1.  18.5.2012







田端文士村記念館には、かつて田端に暮らした芥川龍之介や室生犀星などの手書き原稿や書簡などが展示されている。入ってすぐのビデオコーナーでは田端文士芸術家村、芥川龍之介、室生犀星、板谷波山の生涯を解説している。開館時間は午前10時から午後5時まで。入館料は無料。記念館で資料と芸術家・文士たちの住んでいた場所を記したマップをもらって、まず芥川龍之介が暮らした地へ。

資料によると、明治中期頃まで田端は閑静な農村だった。明治22年に上野に東京美術学校(現・芸大)が出来ると、美校を目指す若者や学生たちが多く田端に住むようになった。明治33年に小杉放庵、36年に板谷波山、40年に吉田三郎、42年に香取秀真など。画家を中心にした“ポプラ倶楽部”も作られ、さながら芸術家村だったという。大正3年、芥川龍之介は一家で田端435番地に転入し、2年後には室生犀星も移り住む。芥川龍之介のたぐいまれな才気と下町人特有の面倒見の良さが、多くの人を惹き付け、やがて菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、土屋文明など数多くの作家が住むようになり、文士村となる。

記念館を後にして、江戸坂を上り東台橋を渡って、切通し沿いの高台を駅と反対方面に進む。童橋を過ぎてから左に折れ少し進むと、小さなマンションの前に芥川龍之介旧居跡がある。大正3年から昭和2年までの13年間暮らした。この間「羅生門」「鼻」「河童」「歯車」等の小説や俳句を執筆し、文学史上に大きな足跡をのこしたが、昭和2年7月、雨の降りしきる中、自室で服毒自殺をした。

東台橋に戻って、田端高台通りの萬栄寺隣の案内板を見る。サトウハチロー・福士幸次郎旧居跡。サトウハチローは詩人・作家で童謡作詞家でもある。童謡「ちいさい秋みつけた」や歌謡曲「リンゴの唄」「長崎の鐘」などは有名。ザ・フォーク・クルセダーズが歌った「悲しくてやりきれない」もサトウハチローの作詞だとは驚き。文京区弥生町にも旧居跡の碑がある。

田端高台通りを左折して路地に入っていくと、室生犀星旧居跡の案内板がある。室生犀星はこの周辺で転居を繰り返していた。抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」の詩句はあまりにも有名。この句の通り、文壇に名を轟かすようになった後も、出身地の金沢にはほとんど戻ることがなかったという。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

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