2012年4月30日月曜日

足立区綾瀬駅界隈

◎TOKYO PHOTO  ; AYASE 24.4.2012







およそ1年いた綾瀬から文京区へ移る前日、綾瀬駅前を撮影。駅西口高架下にあるバスターミナル。亀有駅行、新小岩駅行、竹の塚駅行、大谷田一丁目行、花畑団地行、八潮駅行、六ツ木都住行などの乗り場がある。こちらからは東急ストアが近い。高架下は自転車置き場や居酒屋、ラーメン屋さんなどの飲食店がずらりと並んでいる。

東口方面にはイトーヨーカドーやマクドナルド、ミスタードーナツ。綾瀬小が近いため子どもたちも行き来する。昨年、東日本大震災の被災者を受け入れた東京武道館も、駅東口から歩いて4〜5分の所にある。

葛飾区との区境に沿って古隅田川が流れている。歩道が整備されていて歩きやすい。道ばたの花が咲き緑が濃く色づきはじめた。

東綾瀬公園やパークタウン東綾瀬など広々した緑の空間、約2.3㎞続くせせらぎの緑道「八か村落し親水緑道」などにはいつも癒された。あらめて感謝。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

2012年4月29日日曜日

荒川区南千住

◎TOKYO PHOTO  ; MINAMISENJYU 24.4.2012








南千住のジョイフル三ノ輪商店街から荒川総合スポーツセンターへ。周辺は広々と整備された綺麗な通り。ここにはかつて「東京スタジアム」があった。1962年、当時大毎オリオンズのオーナーで大映映画社長、永田氏が大毎オリオンズ(64年から東京オリオンズ)のホーム球場として28億円の巨費を投じて建設した。大リーグの球場をモデルにして当時としてはモダンな「光の球場」と呼ばれたという。数年間は盛況を見せたものの、その後はスタジアムの建設費を減価償却できない経営状態が続き、1972年を最後にプロのホーム球場としては使用できなくなり1977年解体された。わずか10年間利用されたに過ぎない、今思うと幻のような球場。現在は跡地に区の野球場がある。

野球場の隣は都立荒川工業高校。荒川区の産業を担う人材が育成されている。大手スーパー横に千住製絨所煉瓦塀の一部が保存されている。殖産興業を進める明治政府のもと、1879年に操業を開始した千住製絨所は日本初の官営織物工場で、軍服や警察官の制服などを作っていたという。

その向こうに南千住図書館と荒川ふるさと文化館。建物の前には回向院から移転した「橋本左内の墓旧套(さや)堂」が復元・保存されている。素盞雄神社 (すさのおじんじゃ)は区内で最も広い地域(町屋地区・南千住地区・三河島地区)の61カ町に氏子を持つ神社。広々した由緒あるこの素盞雄神社のある千住は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られ、この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼魚の目は泪」の矢立初めの句碑(松尾芭蕉の碑)が境内にある。

子どもたちが駆け回る天王公園、誓願寺、千住大橋へと進む。南千住は一丁目から八丁目まであり、その間を常磐線と東京メトロ日比谷線、つくばエクスプレスが走っている。線路の西側は今回みた文化財や史跡の多い落ち着いた街並、東側は高層マンションの建ち並ぶ若く新しい街という具合に、全く違う表情を持つのが面白い。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

2012年4月26日木曜日

三河島から南千住

◎TOKYO PHOTO  ; FROM MIKAWAJMA TO MIMAMISENJYU  24.4.2012








荒川から町屋にかけて、峡田(はけた)と名のつく小学校が7校ある。旧地名を小学校名として残しているのだが、峡田は「はけた」とはなかなか読めない。かつてこの地は武蔵国豊島郡に属する近郊農村地域で、大部分は峡田領(はけたりょう)に属し、三ノ輪村、千束村、三河島村、町屋村、金杉村、上尾久村、下尾久村、船方村、新堀村(にっ ぽりむら、のち日暮里村と改称)、谷中本村などの村々が存在したという。

第三峡田小学校の前を通り、明治通りを渡って都電荒川線の踏切に沿って歩くと、ジョイフル三ノ輪商店街に出る。アーケードに覆われて約520mつづく荒川区屈指の地元商店街。昼すぎの時間帯ではあまり人通りは多くなかったが、夕刻には夕飯の食材を買い求める人で賑わう。八百屋さんに魚屋さん、ギョウザの看板も多く、下町の味を堪能できる惣菜屋さんが並ぶ。

路地を入り、公春院、児童公園、真正寺の裏手の道を通り、南千住警察署前の広い通りに出た。

photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

2012年4月25日水曜日

荒川区三河島駅界隈

◎TOKYO PHOTO  ; MIKAWAJMA 24.4.2012








常磐線三河島駅で降りる。都心にありながら乗降客の少ない静かな駅。上りと下りでホームは一つ、改札も一つで、南千住寄りのホームのはずれまで歩いていかなければならない。貨物列車の線路が本線の少し下を走っている。

駅前の尾竹橋通りから荒川仲町商店街を通って南千住方面を目指す。荒川仲町商店街は狭い通りの地元の商店街。子どもを乗せた自転車のママたちが通りすぎ、お年寄りがおしゃべりしながら買物をする。小学生たちも駆け回っている。閉まっている店もあるが、八百屋、肉屋、魚屋、米屋、花屋、雑貨や衣料品の店、スーパーなど何でも揃っている。

商店街の途中に生涯学習センターがあり、校庭では小さな子どもたちがサッカーの練習中。指導者の声に励まされ、自分の頭より大きなボールを蹴ったり転がしたりと可愛らしい。第八峡田小学校(ハケダショウガッコウ)が新しく開校した峡田小学校との合併により、廃校になったあと生涯学習センターになったのだ。さまざまな催しが行われたり、教室を会議室として貸し出されている。

「三河島」の地名は、家康入府の際、三河国(愛知県)から従ってきた人が住み着いたからとか、中川・古利根川・荒川の三つの川に囲まれた島状の中州だったからなどの説がある。戦後、三河島の地名を全国区にしたのは、1962年(昭和37年)に三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故であろう。死者160人、負傷者296人を出す大惨事となった。この事故により「三河島」という地名が全国にマイナスイメージとして持たれるようになったため、1968年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅したとのこと。現在、周辺は東日暮里、西日暮里、荒川になっている。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

2012年4月24日火曜日

川本三郎著『東京おもひで草』を読む

本著は、雑誌や新聞などに掲載されたノスタルジー都市・東京に関する川本氏のエッセイを、テーマに沿って7部構成にして一冊にまとめた本。38編が収録されている。
変化が激しく、これまでの生活が徐々に過去へと押しやられていく都市・東京。長いあいだ親しんでいたものが消えていく。気がついた時には身近なものや習慣がなくなっている。そんな「失われた町」東京を歩きながら「懐かしい」風景や出来事に出会い、少年のように心躍らせる著者の姿に共感をおぼえる。

ひとつには、文学書の中で描かれる「懐かしい」東京の姿を追いながら語られる。登場人物は実に多彩。永井荷風、幸田文、井伏鱒二、江戸川乱歩、小林信彦、林芙美子、池波正太郎など。
永井荷風は、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街の様子を描いて、1937年『濹東綺譚』を朝日新聞に連載。また随筆では、下町の散策を主題とした『深川の散歩』『寺じまの記』『放水路』などの佳作を発表した。現在の東京散歩ブームは永井荷風の『日和下駄』あたりから始まったと解説する。
池波正太郎は浅草で生まれ育った町っ子だった。町っ子は子どもの頃から、祖母の手伝いをして貰った小遣いを握りしめて、子どもどうし連れ立って浅草で映画を見たり蕎麦屋に入ったりする。それが日常のことで、一日も早く大人になりたいと子ども心に思っていた。『銀座日記』などの町歩き名随筆は生まれるべくして生まれた作品であると解説する。

また映像評論を専門とする著者らしく、古い映画や写真の中の風景に思いを寄せる。成瀬巳喜男監督の昭和10年代の映画の中の一銭蒸気や円タクであったり、桑原甲子雄の写真集の中の昭和10年代の銀座や浅草であったり‥。
小津安二郎監督の『東京物語』が作られたのが昭和28年。原節子と笠智衆、東山千栄子の老夫婦ははとバスで東京見学をして、新装開店した銀座のデパート松屋の屋上から東京の町を見る。
隅田川を映した映画も数多くあり、昭和30年代の隅田川と橋、水上バスが人々の足としてまだ活躍していた頃の光景、都電が銀座を走っていた頃の光景など。
昭和38年に作られた山田洋次監督の『下町の太陽』には、墨田区の曳舟あたに住み、資生堂の工場で働いている倍賞千恵子が、郊外の団地に住む友人を訪ねるシーンで、工場の煙が暗く空を覆う下町の工場地帯が映しだされているという。この頃隅田川は汚れて悪臭を放っていた。
東京タワーが起工されたのが昭和32年。小津安二郎監督の『秋日和』にはまだ新しい東京タワーが誇らしげに映し出されている。

「東京の町は、東京オリンピックを境に大きく変わった。新幹線が走り、高速道路ができ、中央線が高架になり、ステーションビルができた。…“東京ベル・エポック”はこの時終わったといっていいだろう」と著者はいう。1944年(昭和19年)生まれで、戦後の復興期と自らの青春時代が重なり、東京の変化をつぶさに見てきた著者にとって、東京の消えていった風景を、歩きながらひとつひとつ拾い集めることは、楽しくも愛おしい作業であったろう。

まだまだ変化し続ける東京。首都直下型地震が現実味を帯びて来ている今だからこそ、考えさせられることが多い一冊だ。

◎著者:川本三郎
1944年、東京生まれ。東京大学法学部卒。評論家(映画・都市・文学)。1991年に『大正幻影』でサントリー学芸賞1997年に『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』で読売文学賞・評論・伝記賞2003年に『林芙美子の昭和』で毎日出版文化賞と桑原武夫学芸賞。著書多数。
亡き妻への思いを描いた『いまも、君を想う』(2010年、新潮社)は、淡々とした語り口でありながら心にしみじみ残る名著。
2011年5月には、自らの60年代の体験を描いた『マイ・バック・ページ』が妻夫木聡と松山ケンイチの主演で映画公開された。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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文;長谷川 京子

2012年4月23日月曜日

目黒区中目黒東山界隈

◎TOKYO PHOTO  ; NAKAMEGURO.no4  23.12.2011





◎撮影:昨年の晩秋
中目黒から、賑やかな山手通りを初台方面に進み、青葉台の交差点を左折して東山1、2、3丁目界隈を歩いた昨年晩秋の画像を少し。東山いちょう通りは名前の通り、いちょう並木が美しい。やや古くなった公務員住宅が建ち並び、隣はさらに防衛省の住宅や学校や病院がある。

少し路地に入ると、おしゃれな住宅と昔ながらの古い住宅が混在していて、少しホッとする。野沢通りから入ると東山中学校があり、中学生が運動する声が聞こえる。通りの脇に馬頭観音碑があった。

目黒区の説明によると、この一帯は明治政府の富国強兵策のもと軍事施設が多く作られた場所だという。駒場練兵場や野砲兵第1連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第8連隊営など次々に建てられたという。駒沢練兵場では、さまざまな訓練が行われたが、東山の傾斜地での急坂路訓練は、人にとっても馬にとってもつらい訓練で、鍛えられていたはずの兵隊も恐れたほどだったという。この馬頭観音には、苫良号と福宮号という2頭の軍馬が祭られているとのこと。

坂道を下って商店街を抜け、中目黒駅に戻る。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

2012年4月19日木曜日

映画『トゥルー・グリット』 監督;コーエン兄弟

◎TOKYO PHOTO  ; TRUE GRIT   18.4.2012







物語りはシンプルで14歳の少女が父の仇を討つため保安官を雇い復讐を果たすまでを描く。舞台は無法者が闊歩し保安官やガンマンが活躍していた19世紀後半のアメリカ中西部。

『ファーゴ』の猟奇性といい、『ノーカントリー』の冷酷な連続殺人といい、コーエン兄弟が描く登場人物にはぞっとする恐ろしさが漂うが、この映画はそうではない。14歳のマッティは弁護士顔負けの饒舌さで仇討ちの金を手にする利発な少女として描かれる。大酒飲みの保安官コグバーンは戦いに疲れきった老いた猛獣のようだ。この二人と旅をする賞金稼ぎの若きテキサスレンジャーのラブーフは誇り高くどこか臆病者。追われる無法者たちさえ泥臭い人間味がある。

少女マッティは追跡の後、ついに自らの銃で亡き父の復讐を果たす。その反動で岩場に落ち毒蛇に手をかまれるが、保安官コグバーンは少女マッティを助けるため夜通し馬を走らせ人家に向かう。その二人が夕陽を浴びて草原を走るシーン、疲れきった馬の体から吹き出る汗とその悲しげな表情、息絶えようとする馬を射殺する保安官コグバーン。こうしたクライマックスの描写はコーエン兄弟にしては珍しく、CG(コンピュータグラフィックス)で戦争の恐怖をリアルに描いた『プライベートライアン』を想起させる異様な美しさだ(この映画の製作総指揮はスピルバーグ)。

「トゥルー・グリット」(真実の勇者)は誰なのか。少女マッティを救った保安官コグバーンなのか、保安官コグバーンを救った若きテキサスレンジャー・ラブーフなのか、困難を乗り越え復讐を果たした少女マッティなのか。これまでコーエン兄弟が描いてきた人間心理の異常性や恐怖は感じないものの、そういう問いかけが楽しめる彫りの深い人間描写が魅力的な映画だった。

◯作品データ
監督・脚本・編集:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
製作総指揮:スティーブン・スピルバーグほか

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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文;宇都宮 保

2012年4月18日水曜日

番外編 常磐線松戸駅界隈

◎TOKYO PHOTO  ; MATUDO 15.4.2012







松戸駅は松戸駅はJR常磐線と新京成電鉄が乗り入れ、接続駅となっている。2階に改札口があり、駅前は東口、西口ともコンコース広場のようになっている。駅ビル「アトレ松戸」に直結する改札口もある。東口にはイトーヨーカドーや松戸中央公園、法務局検察庁、聖徳大学、市役所などがあり、西口は商店街の先に伊勢丹やダイエーなどがある。まさに東京のベッドタウン、どちら側も賑わっている。

市内には佐渡ヶ嶽部屋(さどがたけべや)と鳴戸部屋(なるとべや)があるとのこと。佐渡ヶ嶽部屋には琴欧洲や琴光喜など名前に琴が付く。琴光喜は残念ながら大相撲野球賭博問題にて解雇処分になってしまったが。鳴戸部屋の有名力士は稀勢の里。こちらも師匠の弟子暴行疑惑、その後九州場所開催前に師匠が急逝するなど何かと世間の話題にのぼった。

駅前のビルには居酒屋やコンビニ、キャッシングローン、ファーストフード店などなど看板の花が咲いている。イトーヨーカドーの屋上には子どもたちが遊べる公園のようになっていて、買物帰りのチビッ子たちが元気に駆け回っていた。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子