表紙に映る一枚の写真。白鳥の舞い。凛とした静寂と緊張が目をとらえて離さない。
マイヤ・プリセツカヤは20世紀最高峰のロシアのバレリーナといわれる。跳躍の高さ、柔軟で大きく反る背中、技術の確かさ、カリスマ性、すべてが高く評価されている。体力の衰えが早く訪れるバレリーナの世界で70歳を過ぎてもなおプリマであり続け、その素晴らしい踊りは観客を魅了する。日本でも数多く公演をし、ドキュメンタリー番組などでも取り上げられているので、知っている人も多いだろう。そのマイヤ・プリセツカヤが3年かけてこの分厚い自伝を書き上げた。ロシア語のオリジナル版が刊行されたのは1994年のことである。
マイヤ・プリセツカヤは1925年生まれ。モスクワで芸術家を多く輩出するユダヤ人一家に生まれる。母親は無声映画の女優、父親は炭坑責任者として働いていた。当時ロシアは独裁者スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れていた。1937年に逮捕された父親はその後処刑される。妊娠中の母親も「人民の敵」の妻として刑務所暮らしを強いられる。
バレエ学校を卒業してボリショイバレエ団に入ったのは1943年、まだ戦時中のこと。めきめき力をつけて、1947年にはバレリーナにとっての試金石とも言える『白鳥の湖』を踊る。 垂らした手首、白鳥の肘、反り返った頭、後ろに投げた胴体、不動のポーズ…これらの完璧なまでの美「プリセツカヤ・スタイル」は世界中に知れ渡り、大絶賛。一躍ときの人になる。ロシアを訪れた各国の国賓の前で何度『白鳥の湖』を披露したことだろう。30年の間に800回以上踊ったという。
彼女に向けられた高い賞賛とは裏腹に、劇場上層部の彼女への待遇はよいものとはいえなかった。ユダヤ人であったことが災いし、国外公演への同行が6年間も許されなかった。その間さまざまな陰謀や迫害にあい、もがき苦しみ闘う姿が描かれていく。KGB(ソビエトの情報機関・秘密警察)によって尾行、監視される様子や、叶わない国外公演への出演を求め、上司や文化大臣、大統領フルシチョフにさまざまなルートを使って嘆願する姿が胸に迫る。
マイヤ・プリセツカヤは言う。
「人間にとって何が必要なのか?
他人のことはわからない。だが、自分のことを言えば、奴隷にはなりたくない。
自分の運命に他人が土足で踏み込むことは許せない。
首輪をつけられるのは真っぴら。…
考えていることを包み隠さず話したい。
人に頭を下げたくないし、下げるつもりもない。そのために生まれてきたのではない…」
そんな中で出会った作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚する。夫や友人、作家のルイ・アラゴンの助けもあり、6年の禁を解かれ、1959年ついに念願の海外公演を果たす。アメリカのメトロポリタン劇場を皮切りに、パリのオペラ座、イタリア、スペインと世界各地で大成功をおさめる。プリセツカヤはボリショイ劇場のプリマ・バレリーナとして世界を飛びまわる。多くの有名人との出会いやエピソードも興味深い。魔法のような舞台衣装をデザインしてくれたピエールカルダン、画家シャガール、ロバート・ケネディなどなど。
1964年にはレーニン賞が授与された。当時は、ソビエト国家で芸術家に与えられる最高の名誉ある賞だった。しかしその後も、妖艶さや官能がイデオロギーに反するとする政権側に挑む姿は感動的ですらある。こうしてアルベルト・アロンソの振り付けによる『カルメン組曲』、ローラン・プティによる『バラの死』、ワレンチン・プルチェクによる『アンナ・カレーニナ』モーリス・ベジャールによる『ボレロ』『イザドラ』などの新作が彼女のために生まれる。
波乱万丈の人生を振り返る。妬みや中傷に悩まされたとしても、誰かの旗の下に引き込もうとする者があったとしても、それが茨の道だと分かっていても、頑として自主性を貫きとおしてきた。そのためにあらゆる努力を惜しまずにやってきた。
そしてこう言う。
「力尽きて倒れることもなく、屈することもなく、耐え抜いてこれたという、自分に与えられた恵みに感謝している」と。
1993年、この本が書かれた当時はドイツに暮らしている。モスクワではペレストロイカが進行中であったが、ボリショイ・バレエ団は内紛により分裂し、マイヤ・プリセツカヤの席はもうなかった。しかし人生をかけてきたボリショイへの思いは尽きない。
涙を誘うほどに見る者の心を揺り動かすマイヤ・プリセツカヤの舞いは、気高く、哀しい。
文:長谷川京子
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