2013年6月26日水曜日

樋口一葉終焉の地から西片、白山(文京区)

◎TOKYO PHOTO FROM THE PLACE OF ICHIYO'S DEATH TO NISHIKATA.HAKUSAN ; 15.6.2013











◎text
都営三田線春日駅から白山通りを北に向かって白山方面に歩いて5、6分、紳士服のコナカの入口右に樋口一葉終焉の地の碑がある。スーツの飾られたショーウィンドウの脇にあって目立たず、通りすぎてしまうところだった。

現在この場所は文京区西片1-17-8だが、当時は丸山福山町4番地。一葉は下谷区竜泉に10か月住んだ後、明治27年(1894)にこの地に居を移した。うなぎ屋の離れで、6畳2間と4畳半の3間、庭にはがけの湧水で造られた池があったという。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など代表作を次々に書いて、”奇跡の2年”といわれている。しかし、一葉は結核のため24歳の若さでこの地で生涯を閉じた。

その家は裏側の阿部屋敷の崖に接するように建っていたが、明治43年8月台風の時の崖崩れによって倒壊してしまった。文学碑は昭和27年土地所有者の笹田誠一氏の私費よってに建てられたという。日記以外の表面の文字と裏面の文字は平塚らいてうの書。撰文は野田宇太郎、岡田八千代とのこと。

すぐ先にあるホームセンターのオリンピックから右に折れ、丸山福山児童遊園の裏手をぐるっと廻り込む急坂が「新坂(福山坂)」。坂の上の台地にあった旧福山藩主阿部屋敷に通じる坂を新しく開いたということで、「新坂」と呼ばれる。そちらへは廻らず、昔ながらの富士見湯などを見ながら真っ直ぐ進み、途中を右折した。狭い路地にある「曙坂」と掘られた古い石碑のある階段を上る。住宅地にあるこの坂は西片と白山を結び、通学や買い物などに利用される、地域住民しか知らないようなひっそりした坂。自転車でもうまく下りる。

誠之小学校は旧福山藩江戸藩校「誠之館」跡に建つ歴史のある小学校。「誠之館」は福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校。「学制」公布により小学校制度が発足して間もない明治8年(1875)、 福山藩の阿部家から資金、敷地の一部を譲り受けるなどして開校したのが「誠之小学校」という。平塚らいてうや宮本百合子なども誠之小学校の出身。

◎PHOTOS OF TOKYO CITY by t.utsunomiya
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◎東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
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photo ; Utsunomiya
text;Hasegawa

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